・キャラクターコレクション考察(2)・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
はじめに このページでは、前ページで書きこぼしてしまったキャラコレにおける 気づき、補足事項などを主に扱っていくことにする。 キャラコレのそれぞれのシナリオが持つ意味を各個検証していく形で 話を進めよう。
第1話「兄妹だっていいんだもん!」 可憐がいわゆる「電波」といわれるゆえんが、初っ端のエピソードに 早速収録されている。様々な読者に色々な意味でショックを与えた 「平手打ち」で知られるこの話だが、ここで浮き彫りにされるのは 「可憐は明らかにおかしい」という事に対する客観的事実である。
このエピソードでは、綾小路君が可憐への告白(?)をするシーンで 周囲の人間が静まりかえってしまう部分から、周囲の可憐の極度のブラコンに 対する遠慮(可憐の『タブー』を心得ている)が伺える。
それはだって……綾小路君があんまりヒドいって、 きっとみんなも思ったから……」(P14より抜粋)
という状況が描写されていると思われる。
可憐の病理というか行動の原則というのがこのエピソードでは示される。 他を省みない、あまりにもストレート過ぎる愛情の原理は何か? それは、「いつも自分に正直に」(P88より)という事である。 可憐が一般的に病的に映ってしまうのは、「自分に正直に」というのが かなり大きい。あまりにも愚直に自分に従い過ぎる事、それが導くのは 社会性の欠落なのである。 第4話において、兄の事が心配で発表会を抜け出してしまうという 行動は、周囲の迷惑を考えると非常識極まりない行動である。 しかし、可憐の場合は社会的良心を「自分に正直に」が上回ってしまう。 可憐の愛情の強さの度合い、それは「社会的動物」とまで言われる 人間の本能レベルをも超越したものなのである。 その愛情をして「電波」となるのは、ごく自然な反応ではないだろうか。
最初に、花穂のキャラコレには読み取れる部分が少なすぎる事を 書かなければならない。どのエピソードにも特筆すべき項目は、 残念ながら見つけることができなかった。強いて言えば花穂は 「過去に言及するエピソード」が多い。花穂の基本設定である 「お兄ちゃまを応援する」という事の理由としてのリトルリーグのシナリオ、 「これこれこういうことがあって、花穂はお兄ちゃまが大好き」という 理由説明としての過去に言及するエピソードが花穂のキャラコレなのだ。
現在の兄妹の姿というのは第7話でしか描写されていないし、 将来に対する期待や不安といったビジョンは一切出てこない。
私だけだろうか? これといった特徴も無く、かといってそれを補う 可憐のような愛情が表れているわけでもなく……シスプリにおける 「ふつうの妹」というのは、花穂が相応しいだろう。 (一部の読者は、その花穂をして『庶民派妹』としているようである)
無個性という個性によるものだというのは、いささか強引だろうか?
第1話「あにぃとスノボの夢」 衛は可憐と対照的な位置にある妹というのが私の印象である。 それは、まず第1話での兄と父の対比から始まる。
スキーを楽しんでいる。つまり、衛は「庇護する存在」としての父親を 否定し、「パートナーとしての存在」としての兄を選択した事になる。 可憐が兄に求めるものが実は「父性」であるというのは前ページで述べたが、 衛はこの父性を兄に求めていない。衛の独自性は「パートナー」という 兄妹の解釈から始まっているといっても良いだろう。
ということで、カップルとしての兄妹関係より、そのまま肉親としての 兄妹を誇らしく思っている所から、結婚願望が見え隠れする可憐や、 異性として強く兄を意識する咲耶、白雪……とは、立ち位置が異なっている。
誰かに親切な態度をとる妹というのは衛だけではないだろうか? 冒頭から語られる「ローラーブレード」に関する記憶において、 衛は他人を気遣ってローラーブレードを控えているという事が説明されている。 自分の都合でピアノの発表会を飛び出した可憐とは対照的な思考である。 他の妹と比べてみても、衛は一般的な社会性を持っていると言えるだろう。
衛の葛藤は、自分が女らしくあるべきかどうか? というものだが、 これは周囲が衛に「ありのまま」を求めずに、女らしくしているか、 それとも女友達の「男役」を務めるかの二択を迫っている所から始まっている。
聞いてしまうからだろう。「自分は自分!」と突っぱねられないのは 社会的であり、常識人である衛の当然の苦悩である。
衛のキャラコレでは、全編を通して「兄だけが衛を認める存在である」 という事を浮き彫りにするエピソードが存在していることになる。 「ふたりだけの世界」が形成される過程が、衛のキャラコレではないだろうか。
一般に、「異性愛代表」のような立ち位置で咲耶は捉えられがちであるが、 実は咲耶の異性愛的な態度は表層的なものであり、実は強烈な肉親愛が 根底に存在するということが、キャラコレの記述からある程度判断できる。
このエピソードで気になる部分は、「咲耶は何故兄と結ばれて当然だと 考えているか?」ということである。それは、11ページで自分が一番 兄の事を見続けていたから……という、殆ど「兄妹だから」成立する条件を 理由に挙げている。その後で、咲耶自身も「もしも兄妹じゃなかったら」という 事に不安を抱いてはいるが、その不安は「運命」という言葉で 誤魔化されている。
83ページにおいて描写されたのは、咲耶が自身の「異性愛」に 苦しむ様子である。咲耶にとって異性としての兄の存在は苦悩の元であり、 肉親としての兄との関係の中にユートピアは見出されている。 ベースにある強力な肉親愛が、異性愛によってこじれているという構図が 咲耶なのである。咲耶のキャラコレにおいて描かれるのは「葛藤」であり、 これは「身体的な葛藤」に苦しむ鞠絵の対岸にある様子であるといえよう。
描写(告白される、仲良く下校している等)されている場面が目立つ。 (第1話・第3話) 咲耶自身も男子から一度告白されている。 それぞれ「異性としての存在」が強調されており、 咲耶のテーマとなる「異性愛と肉親愛」を強く裏打ちする要素となっているのでは ないだろうか。
花穂以上にキャラコレから何かが読み取れないのが雛子である。 一貫して描かれる雛子の天真爛漫さ、兄への強い肉親愛、 それ以外にテーマらしきものが見当たらない。 ただ、雛子を見ていて思うのは、「雛子が全ての妹の原点である」ということだ。
ないか? 妹としての過去を持たない帰国組の春歌・四葉・亞里亞は例外として、 雛子の要素は全ての妹に通じる所がある。 つまり、雛子は他の8人の妹の過去を一手に代弁しているのでは ないだろうか? 妹の最も基本的な感情である「肉親愛」について、 いわば世界観の説明の為に存在する妹だと私は考えている。
第7話「いつまでも2人で」 咲耶を超えかねないシビアなラストで、鞠絵のキャラコレは終わる。 基本的に「予定調和」(兄は妹の期待に応え、妹は兄に都合良く振舞う)が 支配しているシスプリにおいて、鞠絵のデートは無事に終わらないという 非常に特殊な形で描かれている。
その後の話の流れというのはあまり考えたくは無い所だろう。 デートが無事に終えられなかったというのは、ここに至る流れから見ても 必ず鞠絵に強い自責を感じさせるものだからだ。
鞠絵の葛藤は慢性的なもので、作品全体に沈んだトーンを漂わせている。
強調しているが、後者はその逆で、普段の「陰」が「陽」になることで 兄妹愛のあたたかさが強調される構成となる。
上に述べた構成によって、鞠絵のキャラコレはトーンは暗いものの、 悲劇的な側面が目立たなくなっている。
目立たなくなった悲劇性を再確認させるシーンであると言えるだろう。 あくまでテーマを持った妹は、そのテーマを強調するエピソードに沿って 動くのである。
前ページにおいておおかた書いた感があるので、ここでは割愛する。 非常に細かい気づきがそれぞれにあるが、それはまた別の機会に 書こうと思う。
キャラクターコレクションに限った事ではないが、亞里亞について 特筆すべき点というのは、その世界観だろう。 ロリータファッション、お屋敷、じいや、そして亞里亞自身。 これは、シスプリ自体の持つイメージを極端に描き出したもの ではないだろうか?
王侯・貴族的な性癖であると書かれている。シスター「プリンセス」という 題名の持つ潜在的な意味合いについて考えさせられる話である。 プリンセスという形容が一番相応しいのは、やはり亞里亞だろう。
描かれる事から、これをテーマとする作品の舞台は孤島や洞窟、屋敷などが 選ばれるのはなんとも象徴的であるということだ。 閉塞的な空間、世間から隔絶された環境で人目をはばかる事なく 育まれるタブーという構図が、古典における兄妹愛を描いた作品には 多く登場していたのである。
元々シスプリの妹の住む地域に関する厳密な記述は無いし、 あまり開かれた環境ではないという印象を遠まわしに読者に伝えるが、 亞里亞の場合は直接的に閉鎖された環境が提示されている。
以上がシスプリのキャラクターコレクションを一通り読んだ時の 気づきであるが、様々な視点から改めてこの本を捉え直してみると、 実に多くの事が浮き彫りになるということがわかった。
あるだろうが、公式な見解が無く、また妹の一人称で進む物語に対して 正確な考察をすることは非常に困難である。それは、ともすると 一種の創作行為にもなり得る事なのだ。
ある程度の見づらさ(情報整理の未熟さ)は認めるにしても、 最大限つじつまは合わせているし、よりシスプリの本質に 迫れたという実感を覚えている。
考察を行って行きたい。「シスタープリンセスとは何だったのか?」 数は減れども、未だに兄の心に半ばトラウマに近い印象を与えている この作品に迫る事が、自身の精神にも迫る事であると私は考えている。
|
SEO | [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送 | ||