・キャラクターコレクション考察・

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

はじめに

連載の終了からはや2年と数ヶ月が経過し、強力なシスプリサイトの
更新停止や公式掲示板の閉鎖等、ファンにとって非常に辛い状況が
展開されている現在、正にシスプリは「斜陽」に直面しております。

この状況は放ってはおけない。何か行動しなければならない……
しかし、焦ってばかりでは話は進みません。まずは、
「今だからこそできること」を見つけて行動する事が肝要なのです。

私は、「シスタープリンセスの構造」を、今こそ再考すべき時なのではないかと
思うのであります。

シスタープリンセスが、何故我々兄の心を掴んで離さないのか?
何がシスプリに呪力じみた魅力を与えるのか? 「そうでない人」が
沢山いるにせよ、今こうして、ここで未だに魅了され続けている人間が、
自分を魅了するものの正体を知りたいという欲求は至極真っ当なものであると
私は思うのです。

そこで、原作であるキャラクターコレクションを再読・考察することで、
シスタープリンセスとは何か? という事に対する自分なりの答え・論理
もって今後のファン活動に活かしていこうと考えました。

連載が終了し、復活のメドも立たない今、このシスプリ熱をどうやって
他人に伝えて行くか?
その為には「創作」は、従来多く作られて来た、
ファン同士での連帯を強めたりする為の……いわばコミュニティの為の創作とは
違った
、「発信する側としての創作」が必要なのです。

通常の同人イラストやSSの場合、どうしても対象は内へ内へと向かいます。
しかし、熱意を「共有」したいのではなく、むしろ「発信」したいと思うからには、
二次創作的ではなく一次創作的な面がウエイトを大きく占めるものを
作らなければなりません。

いわば「ポスト・天広直人&公野櫻子」だったり、
「ポスト・シスタープリンセス」だったりするものを、私は求めたい。

今回のキャラクターコレクション考察は、そのポストシスプリの為の
基礎研究
として、他所のいくつかの考察を踏まえた上で更なる着眼点を
見つけて纏めたものであります。

公開にあたっては、どこかにいる「意思を継ごうとする者」の参考資料として
役立つものであってほしいと願っています。
私では成せないかもしれない事を成せる人の為に、せめて土台だけでも
作っておきたい
という気持ちから、この考察を贈ります。




1.シスプリの各妹に対する着眼点について

まず、シスプリの妹をそれぞれ語る際に多く使われてきた「枠組」を、

ここでは検討したい。私の知る範囲で、妹達はそれぞれ


A.年齢的な区別

B.特技の有無による区別・帰国組との区別


という大雑把な枠組で語られる事が多かったと思う。

しかし、考察の中で、これだけの枠組では妹を捉えきれないことが

わかるのに時間はかからなかった。

この枠組を再考し、新たな着眼点を見出したのは、シスプリ考察の大家こと

あんよ氏である。氏の考察の一つである

キャラクターコレクションにおける妹の設定 〜分析枠組みの仮説的提示〜から、



・内面と外面のギャップを抱える妹

・特技の対称性と非対称性

・心身のギャップ

・肉親愛と異性愛

・過去と未来

・第三者の存在



という新たな切り口を提唱した。私は、これに基づいてキャラコレを再読した。


私が今回考察の切り口にしたい事柄は、「各妹の兄妹像」についてである。

シスタープリンセスとは、様々な兄妹愛の形を提示し、読者に選ばせる作品であり、

妹達は兄妹愛の形を具体的に示す存在なのではないかと私は考えている。

他所の考察文を脇に添え、「兄妹像」という一つの軸に沿って、考察を進めて行く。



2.可憐に見る「幻想的な存在である兄」

可憐が兄に抱く気持ちというのは、一種何かへの崇拝を思わせるものがある。

兄は「スーパーマン」であり、万能なのだという強烈な思い込みがエピソードの

所々で示されている。

「兄」とは読者をイメージした存在であるから、当然「スーパーマン」ではない。

しかし、何故可憐は兄に対して巨大な幻想を抱くのだろうか?


そこで、「離れ離れに暮らす兄妹」というシスプリの基本設定が浮き彫りになる。

ここで定められた「兄妹の距離」とは、妹に兄に対する幻想を与えるツールに

なっていると考えられるのだ。離れて暮らしているからこそイヤな所が見えない、

ということだ。


また、可憐のある程度の幼さから、可憐の兄に対する全幅の信頼は

ある種、父親に求められるものではないかという事が予想される。

子供にとって絶対的な存在、生殺与奪を握る存在である「父」の位置に、

兄(読者)は据えられている。そして、妹は同居している身近な実父ではなく、

住まいの離れた兄に父性を求めているのではないだろうか。


兄妹関係の中で兄の父性を見出せる妹は、可憐・雛子・亞里亞である。

(花穂も含まれるか?)兄の父性の元に庇護される3人の兄への愛情は、

ある種本能レベルに根ざすもののように見える。

そこから、3人のキャラコレにおける屈託のなさが現れるのだろう。


3.咲耶に見る「異性としての兄」・その障害と克服

上に示したあんよ氏の考察に書かれている「肉親愛と異性愛」の項目から、

「異性としての兄妹像」について考えてみよう。


シスプリにおいて「異性愛」とは、最大のテーマの1つと言っても良いだろう。

異性愛は、ほとんど妹達を不安にさせるものとして描かれている。

咲耶に顕著な異性愛の暗さというのは、「不可能である」という前提から来ている。


この不可能性に無自覚だったり、異性愛の薄い妹

(花穂・雛子・亞里亞)は、

異性愛の不可能性に悩むことは無い。


しかし、異性愛に自覚的な妹は、それに立ち向かわなくてはならない。

特に、咲耶はこの不可能性に真正面から向き合っているという点で、

他の自覚的な妹とは異なっている。鞠絵・白雪・春歌・四葉は、

それぞれこの不可能性を無視しているのだ。


鞠絵の場合、まず「病気」という設定から、他の妹にとってデフォルトである

「兄妹である」という意識が希薄になっている。「ふつうの兄妹」に対して

憧れを抱く鞠絵だが、彼女の憧れである「ふつうの兄妹」は、実は

「異性として結ばれた男女」のことであり、根本的に肉親愛と異性愛を

混同してしまっている所から、異性愛の不可能性に対しての葛藤が無いのだ。

(鞠絵は、兄に『兄であること』と同時に『彼氏であること』を求めているのが、

それぞれ4話・7話から予想される)


白雪・春歌の場合は、ある種の「ごっこ遊び」をすることで不可能性を無視している。

一方は「お料理番」として、また一方は「背の君を守る大和撫子」として、

ひとつのフィクションの中で振る舞う事によって、葛藤を回避しているのだ。


例えば、白雪のリボンとエプロンは「白雪を『子供』におしとどめる道具」として

機能していることが6話からわかる。「子供っぽい」白雪の姿は、未来への

成長を止めるためのものであり、リボンを取った自分の姿に驚く白雪は、

同時に自分の未来に想いを馳せる。リボンを取るという動作は白雪の中で

止まった時間を動かし、「お料理番ではない自分」を意識させるのだ。

第6話は、「ごっこ遊びの終わり」を垣間見せるエピソードだと言えるだろう。


春歌は「源氏物語」の紫の上に自分を重ね、ファンタジーに逃避することで

不可能性を回避している。源氏物語というフィクションを免罪符にした春歌だが、

彼女が抱く異性愛への不安というものは、キャラコレでは描かれていない。

何にせよ、両者とも立っている場所は非常に不安定である。



四葉の場合、鞠絵と同じく兄妹意識の希薄さから、異性愛と肉親愛を

混同している。彼女が兄に求めるものは「理解」である。

四葉にとっての兄は、唯一自分を理解してくれる存在……として、

いわば自分の鏡、もう一人の自分を兄に求めている。この傾向は

しばしば自己愛(ナルキッソス)的な人間の例として挙げられるもので、

近親相姦に向かう発想である。「自己愛の時代」とされるローマ帝国では

近親相姦が浸透していたという歴史に、この考えは裏打ちされる。

咲耶は「肉親である兄を異性として愛してしまった」という事に苦悩するが、

四葉は「肉親であるからこそ異性として愛せる」のである。

(参考文献『自己愛型社会』<<岡田尊司>>)



*なお、先に「異性愛の薄い妹」として花穂を挙げたが、先の書籍の論に基づいて言えば

花穂の家庭は典型的な「ともだち母娘」であり、これは将来花穂が

家にとどまり続ける可能性を高くしている。家制度の崩壊によって

他人の所に嫁ぐという仕組みが希薄になった状況の中で家庭は密室化し、

将来的には近親相姦に発展する可能性がある……というのは、

少々発想が飛躍し過ぎているだろうか。シスプリ的ではない生々しさもあり。


ちなみに、咲耶は葛藤の中で「運命」という言葉を使って兄妹という障壁を

超えようとしている。兄妹の制約を「運命」によって超越し、非社会的な形で

あっても結ばれたいという願いと、それを否定する理性。

咲耶とは、この葛藤によって形成される妹といっていいだろう。

鞠絵の病気が治る事が無いのと同じように、咲耶もまた解決されない

心の葛藤を抱えているのである。そして、それがシスプリの提示する

多様な兄妹像のうちの1つなのだ。


4.鈴凛の持つ「もう一つの道」について

鈴凛は、唯一「兄以外の道」が明確にされている妹である。

アメリカへの留学の夢か、それとも兄と一緒に暮らす事か。

これを言い換えると、鈴凛には「発明家としての鈴凛」と「妹としての鈴凛」が

存在しているといえる。このような特殊な状態を作り出した原因は、

恐らく「ジジ」にあるのだろう。


鈴凛の幼い頃、ジジという存在があって「発明家としての鈴凛」が生まれた。

兄との距離を縮める為の手段として発明に勤しむ鈴凛だが、まだジジが

健在の頃の幼い鈴凛というのは、発明への好奇心で行動していた事を

示す記述が見られる。この時点で、鈴凛の発明は兄と結びつくものでは

なかったのだ。


しかし、ジジが亡くなった事によって、ジジは兄に統合されることになる

そこから「2人の鈴凛」も統合されたのだろう。

この統合された2人の鈴凛が再び分離せざるを得なくなる時が、

進路を選ぶ時なのである。


鈴凛の中に見られる「実験」は、妹に兄以外の道を用意してあるということだが、

ここで注目しておきたいのは「何故鈴凛がもう一つの道を持つに至ったか?」

だろう。鈴凛と白雪は「特技派」として括られているが、鈴凛は白雪と違い、

「2人の鈴凛」の存在が統合されて現在があるという面で決定的に

異なっているのである。


5.千影にみる兄妹愛の絶対的不可能性

兄妹同士で結ばれる、というのが単なる「法的な禁忌」として解釈されているのが

他の妹だが、千影の場合兄妹愛というのは「絶対的な禁忌」として描かれている。

千影のキャラコレにおいては、非現実的な出来事が現実の事として

描かれているが、ある種ファンタジーの世界で兄妹が描かれる時、

また違った兄妹像が浮かび上がるのだ。


禁断の果実(1話)、小さな王様(6話)、これらは超常的な力を持ちながらも、

その力は決して千影と兄を結ぶのには役立たない。そこには、

「世界観(神?)」が兄妹を許さないという絶対的な力が働いている。

咲耶が社会に立ち向かい、挫折と超越への試みを繰り返す妹ならば、

さしずめ千影は世界に立ち向かう妹ということになるだろう。


6.補足と中間まとめ

ここで別段の特記事項が無い衛や、他の妹の別の着目点については

次のページにて後述する。ここまで、「兄と妹の関係」を軸にしていたつもりでは

あったものの、いざ書き起こしてみると、この軸では書きこぼしてしまう項目が

多く出てきてしまった。「情報の整理」に関してまだまだ未熟である事を

痛感するばかりである。

次のページでは、補足として妹12人それぞれのキャラクターコレクションで

気になった部分について言及していく。構成云々はともかく、

調べ上げた物事をこぼしてしまわないように、最大限努力したいと思う。


<<Back   Next>>

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送